「語り継ぐ戦争の記憶」清水恭子さんが語る戦時中の中国・大連でのようす

2022.07.28.thu/箕面市内

「語り継ぐ戦争の記憶」清水恭子さんが語る戦時中の中国・大連でのようす

 みのおエフエムでは、毎年8月、「語り継ぐ戦争の記憶」と題して、地域のかたに戦争体験を教えていただき、ラジオで放送しています。
 1945年の終戦から77年。今年は、西宿にお住まいの清水恭子さんが、想像を絶する戦時中のようすや、清水さんご家族の暮らしかた、終戦後に日本に戻るためのご苦労などを語ってくださいました。
 清水さんは、1934(昭和9)年生まれの88歳です。生まれて間もなく「満洲国」、現在の中国・大連に渡り、生活していました。終戦を迎えたのは、小学6年生のときでした。
父親が機械製作関係の仕事をしていて、現地に引き止められていたことから、終戦後もすぐに日本に帰ることができませんでした。
 終戦前の小学5年生の頃、学校に軍人が来て、校庭に穴を掘らされました。「襲撃されたら、手りゅう弾を持って穴に入り、自爆しなさい」と、教えられたそうです。その頃は、戦争に負けたら、お終いという雰囲気があったと語ります。
 工場の敷地内で、家族と暮らしていた清水さんが帰国できたのは、中学生になった頃でした。きっかけは、大連にある病院の先生からの、偽の診察結果でした。国籍を問わず病気を診察していた医師から、重度の結核になっている診察結果を出してもらい、それを理由に帰国することができました。
 帰国してからも苦労は続き、持ち物の厳重なチェックや、DDTと呼ばれる薬を全身にかけられるといったこともありました。国からの支援も無く、貰えたのは、以前暮らしていた地域までの電車の切符程度だったそうです。
「戦争は始まってしまうと、もう個人の力ではどうしようもない。戦争は絶対ダメ。人間同士争わないでほしい」と伝える清水さんの言葉が心に残ったと、お話を伺ったみのおエフエムのリポーターは話していました。

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